2008年9月24日水曜日

鬼の目


 竿を振る師匠  師匠には何が見えているのか?

 自分たちは偏光グラスを掛けません。

(たただでさえ、人相が悪いのに偏光グラスを掛けたらよけい怖いから?)

そうではありません。

人相のいい師匠も掛けません。(鬼なのに人相は穏やかです、丘にいる時は。)

何故かというと、答えは簡単。

必要ないからです。

見えるんです。

逆に餌釣りとかフライで偏光グラスが必要だと言うのもよくわかりません。水面に出た目印であわせたり、ぽっかりと浮いたドライフライに出た魚を釣るのになんで必要なのか。フライの場合はサイトフィッシングが多いので、水中の魚を見つける必要があるという理由なら分かるのですが、ライズを探して釣るなら無くてもいい気もするし。)

 自分たちはフライの様にドライで水面を釣ったり、餌釣りの様に底を釣ったりもしますが、一番多いのが水面直下です。水面直下を流れる毛鉤も見ますが、毛鉤に出た魚の動きを見てあわせます。本当なら、テンカラこそ偏光グラスが必要なのでしょう。

“見える”というのは単純なことではないのです。

 人の視覚は見ているものを全て知覚認識している訳ではありません。見ようとするもの、つまり知っているものが見えているのです。
“知っている”というのはつまり経験によるものです。
そう、経験を積み重ねることによって“見えるよう”になるのです。
ゆえに、同じものを見ていても経験の違いによって見え方が変わってくるのです。
(もちろん、物理的条件や精神状態、天性によっても変わってきますが。)

 自分の知る限り師匠は誰よりも魚が見えます。いろんな逸話もありますが、一緒に釣行していて「あそこに魚がいる」、「ほら食ってる!」と言われ「え!どこ?」、「え!食った?」ということがよくあります。テンカラを始めた頃よりはそんな状況も減りましたが、まだまだ全然かないません。しかも、師匠の目には魚が出た時の一瞬の状況も、まるでスローモーション機能でも着いているんですか?と聞きたくなるくらい正確に見えています。

恐るべし、鬼の目

 これは全て師匠の経験と天性によるものです。幼い頃から川に学び育ち、その天性でどんな釣りでも、大人顔負けの腕前を身につけてきた師匠だからこそ見えるのです。どんな川でもどんな状況でも、どの岩やどの流れのどの棚に魚が着いていて、どこで毛鉤を食うのか、川と魚の生態を知り尽くしているからこそ見えるのです。抜群の動体視力も経験の賜物です。(速読者やプロ野球選手の目も訓練(経験)によるものです。)

状況を見る目、川を見る目、魚を見る目、まさに鬼の千里眼。

欲しい。

 その技術に憧れ師匠に付いたのですが、すぐに気付いたのがその目のすごさです。
自分に見えないものがこの人には見えている。見たいものが見えている。
自分が絵の勉強を始めた時と同じでした。

 世の中で凄いなと思う人は、アスリートであれ政治家であれ学者、芸術家、漁師、農民、教師、釣り人、なんであれ見たいものが見える卓越した目を持っています。

 経験を積むごとに少しずつ見えるようになるんです。
自分の職場の喫煙室に古びた手拭が飾ってあります。剣道師範の何かの記念品です。そこには、「鍛は千日の稽古、錬は万日の稽古」と書かれています。
煙草を吸いながらそれを見るたびに胸が熱くなります。


2 件のコメント:

yo-zo さんのコメント...

デイリィー更新。エライ!
その調子でがんばってちょ!

因みにおいらは偏光レンズします。
底石見えないと転ぶから。
あっ!してても転ぶけどねん^^v

花立毛鉤工房 さんのコメント...

「ただでさえ人相が悪いのに・・・・」
画伯の場合、それも大きな条件です。