ラベル 雑記 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 雑記 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2011年9月4日日曜日

台風12号


 今シーズンも後1ヶ月をきりました。例年なら9月は魚も大きくなって喰いが立ち,一番良い月です。しかし,この台風12号の影響でホームはこんな状態です。


 不調だった今シーズン,9月のホームに期待していたのですが,これだけ増水すると回復するのにどれだけ時間がかかることやら・・・。

2010年10月19日火曜日

初ペアリングウォッチング


ホームにペアリングを見に行ってきました。今まで,何度も行こうとしたのですが,今回が初めてのペアリングウォッチングです。

 毎年,何処に居たんだというくらい,たくさんのアマゴが見られ,しかも,40cm近い大アマゴも見ることができるそうです。しかし,今年は時期が合わなかったのと,やはり魚が少ないとのことで期待通りにはいきませんでした。

 いくつかのペアリングを見た後,ようやく30cmくらいのアマゴが2匹,サメのように背びれを立て,戦っているのか戯れているのか,大淵の中を優々と泳ぎ回る様子をじっくり堪能することができました。






 来シーズンも,たくさんのアマゴが元気な姿を見せてくれることを祈るばかりです。







2009年9月26日土曜日

グリップ


左が今までのグリップ(サムオントップ),右が師匠のグリップ


 先日,石徹白の鬼塾でのこと,夜の勉強会の時に師匠にグリップを指摘をされました。
 今まで,真っ直ぐ振るためにサムオントップで振っていました。これは,兄弟子のF原さんに教えてもらったもので,初心者にありがちな手首の回転を防ぐために,このグリップを覚えました。ある程度,振れるようになったとき,F原さんに,「ピンポイントを攻めるなら,インデックスに変えた方がいい。」と言われました。しかし,インッデックスでなくても,自分の思うところにキャスティングできたことと,5mの竿を振ることが多かったために,力の入りやすいサムオントップで通してきました。師匠のグリップと違うのは分かっていましたが,下手クソな自分では軸がぶれてしまうような気がしていたのです。
 しかし,改めて師匠に指摘され,教えて頂くと,(サムオントップでもインデックスでもなく)なるほどこのグリップの方が安定することがよくわかりました。人差し指と親指の付け根のVの字と,肘の中心に竿の軸をあわせ,人差し指と親指で竿を押します。
 このV字に,竿の軸を持ってくるのは,フライのVグリップと同じだと思うのですが。それにインデックスの利点である支点と作用点の長さを確保することで,安定感が増しています。最近のフライ雑誌の中では,Vグリップが最も人体の構造上,無理なく真っ直ぐ竿を振ることができ,フルラインキャストのような,肩から腕を動かすキャストでも軸がぶれない,最善のグリップと紹介されていました。
 恐るべし,鬼の釣り。師匠は独自に,このグリップのシステムを身に着けていたのです。しかも,テンカラのような長竿で,あらゆる角度から自在に正確に,キャスティングするのに最も適した形で。


 当然,石徹白の2日目はこのグリップで釣りました。今までよりも,安定してピンポイントにキャスティングできたのは,言うまでもありません。



にほんブログ村 釣りブログ テンカラ釣りへ
にほんブログ村

2009年9月23日水曜日

PENTAX OptioW80

PENTAX 防水デジタルカメラ OPTIO (オプティオ) W80
ついに買いました。憧れの防水カメラ。
アマゴンスキーさんや佐藤さん(SS'TS フィールドスケッチ)に意見を聞いたり,ネットで情報収集したりと,迷うこと半年,気付けばシーズン終わり間際,石徹白に間に合わせたかったのですが・・・。
このカメラの活躍は来シーズンかな。

2009年3月15日日曜日

スタンダード


 テンカラサミットは当然、河川環境も含めこれからのテンカラを考えるということがテーマでした。(詳細は山ちゃんのブログ花立毛鈎工房をご覧ください。)二次会の席でも話題はどうしたらテンカラを普及できるのか、自分たちに何ができるのかということになりました。(酔っていたのでまともな会話になっていなかったと思いますが、木村さんを始め、皆さんごめんなさい。)あれから1ヶ月余、仕事に追われ、まだ解禁を果たしていませんが、仕事の合間に自分なりにあれこれ考えたことをまとめてみます。
 まずはテンカラがメジャーにならない理由についてです。道具立てがシンプルすぎて市場にならないから、イメージ的におじさん臭いから、いろいろあると思います。
 伝承的な職漁師の和式毛鉤釣り、その歴史は古いです。(詳しくは石垣先生のホームページテンカラ紹介を参照して頂きたい。)しかし、ゲームフィッシングとしてのテンカラの歴史はまだ浅く、各地に伝承的に伝わってきたものだけに、各名人による流派性が強く、まだスタンダードといえるものが確立されていません。これが、テンカラがメジャーになりきれない一番の理由ではないでしょうか。
 自分も鬼の釣り、榊原流テンカラを求道する者として例に漏れていませんが、師匠に心酔し、追い求めれば求めるほど一門としての敷居が高くなってしまいます。多分どの一門でも同じことがいえると思います。自分のやっている釣りが一番、そう思うのは当然です。結果、初心者に「どの釣りが正しいの、どれが基本なの」と言う疑問を持たせ「テンカラって難しそう」と思わせてしまうのではないでしょうか。下手をすると、普及したいと思っているのに自分たちの行動の結果、逆の状態を作り出しているのではないか、そんな不安が・・・・・。

 主流があって亜流がある。支流が集まって本流を作る。テンカラもそうであるべきです。「スタンダードテンカラ」あると思います!(石垣先生はきっと主流を作ろうと尽力されているのだと思います。)
 アプローチもキャスティングも理にかなったものがあります。フライの世界ではかなり科学的に研究されていて理にかなったものが知られています。これがスタンダードです。テンカラも竿を使って糸と毛鉤を飛ばす以上、物理的に理にかなったキャスティング方法があります。奇抜なホームや道具は必要ありません。伝承というのは厄介なもので、確かに長年培われ理にかなったものもありますが、「昔はこれしかなかったから」に気がつかず、未だに頑に守り続けているものもあります。

 自分は鬼の釣りにスタンダードがあると思います。師匠が取り上げられる時にはその神業的な技術から、カリスマ性が全面に押し出されがちですが、師匠は自分の釣りを極めると同時にスタンダードも作り上げています。師匠の釣りは伝承を受け継いだものではありません。そして、理にかなった無理のない自然体が基本です。川に入ってから魚を掛け、取り込むまで無駄な動きがありません。誰もがまねのできないものではなく、誰もがお手本とすべき姿がそこにあります。

 フライの雑誌「Fly Fisher」4月号(釣り人社)にパタゴニアの創始者イヴォン・シュイナード氏の「Simple Gifts」という記事が載っていました。氏はフライマンですが最近はテンカラをやっているそうです。(昨年、師匠がアメリカ釣行に行った時に同行し親交を深めたそうです。)イヴォン氏は禅に傾倒し、現代の物に溢れた社会、あまりに進化し多様化し道具に頼りすぎるフライフィッシングに警笛を鳴らしています。「なにごとにつけ、熟達の域をめざすなら、シンプルさを求めることだ。複雑なテクノロジーを、知識や努力、スキルで置き換えることである。」「〜スポーツの目的とは、精神的、肉体的に成長することである。もしあなたがプロセスにおいて妥協をすれば、変わることもできないだろう。」氏はそう言っています。そんなイヴォン氏がテンカラをやっています。嬉しいことす。そして、期待が持てます。
 今の日本、市場主義世界の中でこの考えがどれだけ受け入れられるか。エコロジーが叫ばれて久しく、現在は世界的な不況の真っただ中。もうそろそろこのミニマルな考え方が普及してもいいのではないでしょうか。

 テンカラのスタンダードを確立すること、そしてそのシンプルさが受け入れられること、それがテンカラのメジャー化につながるのだと思います。

2009年2月15日日曜日

冬の楽しみ


       我が家を暖める薪ストーブ

 かいだけでなく、冬が楽しく過ごせます。


       薪割りもいい運動と気分転換になります

薪の調達や薪割りなど面倒だと思っていましたが、意外に苦にならず、かえって楽しく感じます。
手間がかかる分、スイチ1つで暖かくなる暖房器具では味わえない良さがあります。

 今年は、春の訪れが早そう。今シーズンはあと何回ストーブに火を熾せるやら。

2008年11月1日土曜日

釣れ連れなるままに 〜その⑧“フィッシュカービング”


アマゴの剥製?

いえいえ、違います。

手乗りサイズのアマゴのフィッシュカービングです。
数年前仕事が暇だった頃オフシーズンに作ったものです。
公園で拾ってきたサクラの枝を彫って、アクリルで彩色をしました。

 この前平谷湖に行ったとき、受付のカウンターにニジマスの剥製がありました。
小さなニジマスでしたが、実に綺麗な仕上がりで、これなら欲しいなと思えるできでした。
最近の剥製の技術はすごいですね。口を開けその中までみごとに再現してありました。
自分も何時かは欲しいな、なんて思いもしましたが、やはり貴重な大アマゴを持ち帰り剥製にして家に飾るなんてとても自分にはできません。馬鹿げているかもしれませんが、今までやってきた釣りも、これからの釣りも違うものになってしまう気がします。
写真を撮らせてもらって、元気に川にお帰り頂く。
それが一番。それが気持ちいいんです。
 テンカラを始めたばかりの頃はなかなか魚が釣れず、なんとか釣れた魚を持ち帰っていました。兄弟子たちはそんな自分をとがめることなく、見守ってくれていました。迷っていると「持って行きナイ。」と優しく言ってくれました。(多分、もし強要されていたら今の自分の釣りは無かったでしょう。)しかし、兄弟子たちの姿を見ているうちに自然とリリースするようになっていました。以前はカメラもなく、写真に撮る喜びはありませんでしたが、良型の魚をリリースした時の快感は忘れられません。不思議なもので、魚をリリースするようになってから、釣果が上がりました。魚を敬い大切にすると魚が釣れるんです。
 と言うことで、剥製のかわりに今度は写真を基に実寸でフィッシュカービングを作ってみようかな。でも実寸だと偽物感が強くなってしまうから、やっぱりミニチュアの方が良い気がします。ミニチュアだからリアルなんですよね。
ん?いかん、いかん。オタク発言でした。


2008年10月25日土曜日

カメラ

   
前回の釣行(今シーズン最後)のとき、デジカメを持っていけず、携帯で写真を撮りました。当然、画素が荒くがっかりです。我が家にはデジカメが1つしかなく、妻が子どもの行事で使うとなれば、親父の釣りに持って行くなんてできるはずありません。もともと、だいぶ前のカメラでシャッターを切ってからのタイムラグが大きく、シャッターチャンスを逃すこともしばしば、想い通りの写真を撮るのに苦労していました。おまけにディスプレイも小さく、どんな写真が撮れているか家に帰ってパソコンで見るまで分からない始末。
 そんな訳で、新しいデジカメを購入しようと思い立ちました。
山ちゃんも今シーズン新しい防水のデジカメを購入し、水中写真まで撮っています。最近は水没することも少なくなりましたが、やはり防水というのは心強い。
 で、この2つ。悩んでます。
ペンタックスの方は5倍の光学ズームと1㎝の接写、そしてリーズナブルさが魅力。オリンパスは防水10m、耐衝撃2m、耐加重100kgf、対温度-10℃というタフさが魅力です。
どなたか、どちらがお勧めなのか教えて頂けないでしようか?

2008年10月15日水曜日

釣れ連れなるままに 〜その⑦“続毛鉤”


#6の毛鉤 これも今シーズン活躍した鉤(詳しくは“納竿”を見て下さい)
 前回紹介した#4のフックはガマカツS10−3Fですが、これはTMC 104SP。S10−3Fの#6が欲しいのですが、手に入らないためこれを使っています。このフックはS10−3Fより重め。メーカーでは、水面および表層用というコンセプトで出しいるため、確かに重すぎず、軽すぎず、水面直下を水に絡みながらゆっくり流れる感じがします。師匠は「鉤の形はいいが色が、黒ければな。」と言っていました。


下から見るとこんな感じ。 美味しそうでしょう。


#10の毛鉤 これは、今シーズン2本の尺を掛けた鉤
 これもTMC 104SP。メーカーは強度があると言っていますが、このサイズになると自分は弱い気がします。伸びはしないのですが何本も折っています。(使い方が荒いのかな?)今までこのサイズから上は雉を使っていましたが、今年初めて鶏を巻いてみました。そうしたら非常に使い勝手が良く、大当たり。なくてはならないパターンになりました。ハックルは色違いのコックとヘンの2種類を合わせて巻いてあります。もともと#12以下ではよく巻くパターン。もっと軽いフックを使う場合はコックハックルだけのパタターンもよく巻きます。いずれも実績があり一番信用できるパターン。

 普通よりもハックルが多すぎるように見えるでしょ。多いんです。ガンコ(遠州弁?)巻きます。師匠は多く巻いておいて、状況によってその場でハックルをむしって調節しますが、自分にはなかなかできません。なので、多いパターンと少なめと2種類作ります。でもほとんどこれでOKです。他にも#16、18のCDCを使ったソラックスダンやハックルもボディーも黒いパターンも毛鉤ケースに入っていますが、ほとんど使いません。
 
 今シーズンは今までよりも、自分のやりたい釣り、こういう毛鉤の使い方(川の状況、射つ位置、流し方等)が少し分かってきたような気がします。
 
 師匠が言うには

「魚が教えてくれる。」

そうです。

2008年10月13日月曜日

釣れ連れなるままに 〜その⑥“毛鉤”


今までに師匠から頂いた毛鉤の一部
 師匠は使ってみろと言って気軽にくれるのですが、実は、使わずに大切にとってあります。私の宝物です。 
この毛鉤をお手本にしています。



今年活躍した#4の毛鉤
使い方次第でこの鉤にでかい魚が出るんです。 


 石徹白で師匠に出会い、ホームの川に誘われ出かけた時のことである。
自分はそれまで、最強レベルラインに影響されてとにかくでかい毛鉤を多用していた。毛鉤の巻き方も、素材も知らず、今考えても「そんな毛鉤で釣れるけ?」というような毛鉤を巻いていた。
(石徹白でF原さんに毛鉤をもらって初めて、本物の毛鉤を見た。それから毛鉤の機能、釣り方を指南して頂いて初めて魚を釣ることができたのだが。)
 その年の春、この川に独りで釣行したことがあった。その時川で出会ったテンカラ師に釣果を聞かれ、全然釣れないこと、今まで渓魚を釣ったことがないことを伝えると、毛鉤を見せてみろというので見せた。するとこんな毛鉤で釣れる訳がないとひどく馬鹿にされた。そしてその人の毛鉤を見せてくれた。#12くらいの小さな毛鉤だった。それで何匹もアマゴを掛けたというその人の話を聞きながら、凄く悔しく思った。自分が釣れないことでなく、自分が憧れている鬼の釣りを馬鹿にされた気がしたからだ。(今思えばあの鉤ではしかないのだが)
 その事を師匠に話し、その毛鉤を見せると笑うどころか「これで釣れるよ」と言って、お世辞にも釣れそうとは言えない毛鉤を使って、目の前で本当にアマゴを掛けてくれた。
師匠が言うには
「その衆は、こういう鉤の使い方を知らんダヨ。こういう鉤じゃニャア出ん時もあるし、普通の衆は飛ばせんダヨ。」

 嬉しかった。師匠の腕にも感動したが、入門仕立ての新人にまで、やってきたことを無に帰させないという心遣いに感動した。

「それぞれが、自分の信じる釣りをすればいい。それをするための知識と技術を身につければいい。間違いなんかじゃない。」

師匠の釣りを見てそう教えられた。

2008年10月9日木曜日

釣れ連れなるままに 〜その⑤“達人”

 石徹白のフィシャーズホリデーでは師匠を始め、いい出会いに恵まれた。兄弟子のF原さん、K分さん、カバちゃん、そして山ちゃん、最初に出会った鬼の釣りの一門である。
 自分はこのとき師匠と会った緊張のあまり、竿を仕舞うとき穂先を折ってしまた。そこに現れたのがF原さんである。顔はド怖いのにとても親切で穂先を直してくれたばかりか、毛鉤までくれ、一門の昼食の席に招いてくれた。その時、凄く怖かったのはカバちゃん。鬼の一門の風格があった。(今はあんなに可愛いおじさんなのに。本当にお世話になってます。)そして、F原さんと絶妙の絡みを見せていたK分さん、下ねたが大好きで、小ちゃいけど頼りにになりそうな兄さん肌の人であった。(今はなかなか会えないけど、元気にしてますか?)本人は人見知りというけれど、初対面の自分に気さくに話しかけ、いろいろと細やかに気を遣ってくれた、山ちゃん。(ムッシュさんはこのときは石徹白不参加でした。)
 中にはなかなか会えない人もいるけれど、会えば気の置けない家族のように寛げる面々である。あれから、さらに仲間は増えたけれど、いずれも快い気持ちのいい人たちばかりである。仕事も年齢も関係なくテンカラという釣り、鬼を中心に繋がっていく仲間は、無邪気真剣で、まるで子どものように遊べる、そんな愛すべき存在だ。
 
 先日、そんな仲間のyo-zoさんのブログで仕事をとるべきか、釣りをとるべきか悩んでいたのを見て今回のサブタイトルを思いついた。
 
 この鬼の一門の面々は、釣りの腕もさることながら仕事でも達人が多い。師匠ももちろんそうだが、カバちゃんもその道では日本に数人しかいないという達人中の達人だし、小ちゃいのにK分さんは某有名企業の第一線で働くエリートビジネスマンだし、山ちゃんもその業界ではエリート街道まっしぐら、寝る間もないくらいの忙しさで働いている。F原さんは・・・・・・仕事では達人かどうか分からないが、釣り以外のある道(あまり人には言えないが)ではやはり達人である。
 釣りの腕を磨くような人は仕事にも必然的に同じような姿勢で臨んでいる。(逆かもしれないが)そんな人たちだからこそ、立場も年齢も超えて一緒に付合っていておもしろいのかもしれない。人間的魅力溢れているのである。
 
と、自分を振り返ると「まだまだだね。」釣りも仕事も修行が足りない。

頑張ろう!

2008年10月3日金曜日

釣れ連れなるままに 〜その④


 自分の竿を持ち釣り方を指南中の師匠  08.09.07 T川本流にて

 師匠のことは、今は絶版になってしまった「テンカラクラブ」という季刊誌で知っていた。この雑誌には瀬畑さんを始め天野さん、石垣先生など現代のテンカラを代表する名人が紹介されていたが、テンカラの鬼が一番のお気に入りになった。子どもがイチローや中田に憧れるように自分のヒーロになっていた。記事の中で語られていた、その武人のような釣りに対する姿勢と厳格さ、そして確かな釣りの理論。釣りに関して全く無知な自分にも「すごい」と思えた。
そして、極めつけが大鉤に長竿、ロングラインの釣り

「最強レベルライン」を知ったとき

「これだ!これしかない。」自分の求めるものが見つかった。
 
即ビデオを購入、テープがすり減るほど見た。カッコイイ!!(今ではDVDにダビングしたものを見ています。やっぱりカッコイイ!!帽子のつばは真っ直ぐだけど・・・必見です。)
そして、その憧れのテンカラの鬼・榊原さんが石徹白フィッシャーズホリデーでテンカラ講習会を行うことを知り、会いに行ったのである。

 会場に早めに着き、そわそわしながら“鬼”の現れるのを待っていると、来た!。その時のことは今でもはっきり覚えている。

小柄なその体に合わない存在感

ただ歩いているだけなのに、

その物腰、眼光の鋭さ、まさに武人

周りの空気を変えてしまうほどの威厳に満ちていた。
 
 話しかけたいけど、とてもそんなことできる雰囲気ではなく、ただ一定の距離をおいて遠目に見つめるだけだった。(オレって、ストーカーか恋する乙女)そんな中、勇気のある人も居るもので“鬼”に声をかけた人が居た。じーっとその様子を観察していると“鬼”に食われるでもなく、何やら自分の竿を持ち出し“鬼”に見せている。竿の調子を見てもらっているのだ。これはチャンス!急いで自分も車に竿をとりに行き、見物人の輪に入り込んで機会をうかがった。すると、自分の物欲しそうな視線に気がついたのか“鬼”と目が合った。(ビビるなオレ)勇気を振り絞り声をかけ自分の竿を差し出した。意外にも“鬼”は優しく気さくで、何処の何者かも分からない自分の竿の調子を当然のことのように見て下さった。糸をつけるようにと言われ、焦りながら自分の持っていたラインをつけると、“鬼”は再びその竿を手に取り、一振りで見たこともない綺麗なループを描いてみせた。何度もビデオで見た憧れのキャスティングだ。自分が毎日のように練習し続けても満足にラインを飛ばすことができなかった竿を、初めて手に持って、たったの一振りでである。同じ自分の竿とは思えなかった。
そして、鬼はこう言われた。
「この竿はこう振るダヨ。」と
 

これが、「テンカラの鬼」、師匠との出会いである。

そして、愛すべきテンカラ仲間との出会いもここであった。
・・・・・・・・・つづく

2008年10月2日木曜日

釣れ連れなるままに 〜その③

 なんで釣りを始めたかというと、いらん先回りで、子どもを自然の中で遊ばせるのに、何か一緒に遊べるものが必要だと考えたからだ。釣りでもやったら自然に興味を持ってくれるんじゃないか、そのためにはまず、父親の自分が釣りができなければならない。そんないきさつである。
しかし、そんなことをせずとも子どもたちは自然が大好きに育ち、野に放てば何もなくともいつまでも遊んでいる。そして、子どものためにと始めたはずが、今では子どもほったらかしで自分がのめり込んでしまった。始めたばかりの頃は、まだ5歳の長男に竿を持たせ、自分は背中に次男を背負い、胸には三男をだっこしてテンカラをやったこともあった。(子連れテンカラ師)解禁当初の谷に一家総出で出かけ、寒空の下、妻に子どもたちを預け自分はテンカラに没頭したこともあった。(おかげで、山が嫌いでなかった妻も今では大嫌いになってしまった。)

 数ある釣りの中で何故テンカラを選んだのかというと、道具立てがシンプルだったからである。(金がなかったからというのも理由の一つ)竿一本、糸と毛鉤それさえあればどんな状況でも対応できる。風呂敷的なところが気に入ったのである。それさえあれば使い方次第で何にでも対応できる、万能なもの。物事の本質や心理を追い求めていた自分には直感的にこれだと思えた。しかし、その存在は知っていたものの学ぶ術がない。インターネットや数少ないテンカラの書物からの拙い知識だけで始めてみたものの・・・釣れない。独学でのキャスティング練習、川も流れも見れず何も知らずの実釣を半年くらい続け、このままではどうにもならないと思った時、自分に一筋の光が射した。

それが、師匠、テンカラの鬼、

榊原正巳である。

つづく

2008年10月1日水曜日

釣れづれなるままに 〜その②

 学生のころに大阪に初めて行ったとき、都会の喧噪に圧倒され、暴力的に押し付けられる情報量の多さに、五感が麻痺して行くのを覚えた。(ただ、自分が田舎者で情報を処理しきれなかっただけかもしれないが)自然の中に居る時とは正反対の感覚。
このとき思ったのが、自分には「能動的な受動」があっている、ということ。自分が、意識的に感じようとしなければ感じられない感覚、決まったもの(人工的なもの)を押し付けられることで得られる、限られた情報でなく、あるがままのもの(無為自然なもの)をあるがままに受け入れることによって得られる、無限に広がる知覚が、それを感じ取れる五感がとても大切に思えた。

また、話が長くなってしまった。

 子どもが産まれて父親になり、子どもにも同じ感覚を持って欲しい、教えたいと思った。
今思えば子どもは素晴らしい。歩くことを覚えて間もない長男は、その足から伝わる大地の感触を楽しみ、平滑ではなく起伏のある地面を駆け回り、転がりその感触を全身で感じ取りながらはしゃぎ喜んでいた。日の光の暖かさや風の抵抗に、その広さに心奪われいつまでも飽きずに遊んでいた。遊具も何もなく、ただ全身に伝わる自然の感触を楽しみ喜んでいた。教える必要はない、ともにそれを喜び、環境を与えてあげさえすればいいのかもしれない。もしかすると、初めに飽きて退屈になり“つまらない”と思うのは大人なのかもしれない。気付かないうちに“つまらない”という感覚を教えているのでは・・・・。何にしても、浅はかな先回りと何でも与えるというのは良くない。環境を用意してあげること、飽きずに付合うこと、本当に必要な時だけほんの少しだけ助けてあげること、そして共感してあげることが必要なのだ。

あれ、教育論になってしまった。
『やっちまったな〜』・・・・・・・つづく

2008年9月30日火曜日

釣れづれなるままに 〜その①


一瞬の川の流れに永遠を想う

 自分はテンカラを始めるまで釣りをしたことがなかった。
(幼い頃に兄と一緒に近所の川で釣りをしたが、仕掛けが絡まりそれがほどけず、その面倒臭さがトラウマになり釣りが嫌いになった。兄は釣り好きで、中学の頃から独学でフライやテンカラをやっていた。自分たち兄弟が育ったのは宇都宮の真ん中だから、中学生の兄は自転車で何時間もかけて、小黒川や大谷川、鬼怒川まで行き、自分で毛鉤も巻いていた。小遣いは全て釣り具につぎ込んだ。当時そんな兄と仲が悪かった自分は兄のやることが嫌いだった。兄は趣味人でとにかくなんでもやった。ちなみに父も遊び人で、これまたなんでもやった。)
 それでも、魚を食べるのは好きで兄が釣ってきたヤマメや旅行先の釣り堀で釣るニジマスは本当に美味しいかった。(今では、自分が川で釣った魚はほとんど全部リリースしてしまうので、オフに行く管理釣り場の魚しか食べないが。)
学生の頃も先輩に職漁師みたいな人がいて、アマゴの薫製やアマゴ飯などを馳走になりその味の虜になった。
しかし、自分が釣りをしようなどとは一切思わなかった。趣味というものに興味がなかった。二人の反面教師のおかげで。
 
 それでも、学生の頃から山に行くのは好きだった。アウトドアとかキャンプとかそんな洒落たものでなく、ただ独りで山をぶらつき野宿をし、必要最小限のものでその日を暮らす、そんなことが好きだった。山の中を半日も歩けば自我が消え、自然と一体になれたような気がした。便利な世界から離れ、日常なら面倒だと思う生活の営みにも、意味を見いだすことができた。

 師匠との出会いを書こうと思ったが、話が長くなりなかなかたどり着かないので・・・・・・・つづく


偏光に変更?

 今回の釣行をブログにまとめていると、師匠から電話が入りました。納竿会に参加できなかった自分を気遣ってのことでした。(感謝)ついでに、このブログも見てくださったみたいで「おもしろいよ。」と言って頂きました。そして、偏光グラスのことについてこんなことを仰っていましたのでアップします。

 偏光グラスはあった方がいいと思う。遡行するとき川底が見えるから安全だし、やはり釣果に差が出る。特に初心者はあった方がいい。気付かずに見落としている魚もいるから。
昔はいい偏光グラスがなかったから掛けないですましてしまった。(昔、いくつか試したことがあるらしいです。)でも、今の偏光グラスは格段に良くなっている。
いろんな偏光グラスを掛けてみてその結果もブログに書いてくれるといいな。(そんなことできるかな?)

とのことです。ついでに、いいタモがあれば欲しいとも仰っていました。魚をいためずにすむし、大きな魚を取り込むのにやはり便利だと。

意外な発見。師匠も一般人と同じようなことを思うんです。
しかし、師匠は偏光グラスも、タモも使いません。道具に頼らないのです。
こう書くと、また「いやいや、そんなことはない。」と言われると思いますが、自分は師匠の釣りには道具なんてなんででもいい、必要ないと言っているのではありません。弘法筆を選ばずと言いますが、弘法はどんな筆でも素晴らしい字が書ける、ダメな筆は選ばない、と両方言う人がいます。師匠はまさにどんな竿でも、ラインでも、毛鉤でも即座に使いこなしてしまいます。(師匠にかかれば棒切れでさえ名竿、ゴミのような毛鉤でも名フライです。本当の話。)しかし、師匠の道具を見る目は天下一品。いい道具を持っています。
 何が言いたいかと言うと、師匠の釣りは日本的だということ。心技体の釣りなのです。(道具に頼り過ぎると自分を見失ってしまいます。)ただ師匠が言うのは自分の能力を最大限に発揮できる道具があれば使うべき、変に意固地になって凝り固まってはダメだということだと思います。常に先を見つめ自分の釣りの可能性を探り続ける、そこがまた師匠の凄いところです。また、テンカラを広めたい、誰にでも簡単に楽しく釣ってほしい、そういう想いがあるのだと思います。
 
 師匠はよく言います。

「当たり前のことをしているだけ、

難しいことはしていない。」と。

しかし、鬼の目に偏光グラスを掛けたらまさに、鬼に金棒。向かうところ敵なしです。

2008年9月24日水曜日

鬼の目


 竿を振る師匠  師匠には何が見えているのか?

 自分たちは偏光グラスを掛けません。

(たただでさえ、人相が悪いのに偏光グラスを掛けたらよけい怖いから?)

そうではありません。

人相のいい師匠も掛けません。(鬼なのに人相は穏やかです、丘にいる時は。)

何故かというと、答えは簡単。

必要ないからです。

見えるんです。

逆に餌釣りとかフライで偏光グラスが必要だと言うのもよくわかりません。水面に出た目印であわせたり、ぽっかりと浮いたドライフライに出た魚を釣るのになんで必要なのか。フライの場合はサイトフィッシングが多いので、水中の魚を見つける必要があるという理由なら分かるのですが、ライズを探して釣るなら無くてもいい気もするし。)

 自分たちはフライの様にドライで水面を釣ったり、餌釣りの様に底を釣ったりもしますが、一番多いのが水面直下です。水面直下を流れる毛鉤も見ますが、毛鉤に出た魚の動きを見てあわせます。本当なら、テンカラこそ偏光グラスが必要なのでしょう。

“見える”というのは単純なことではないのです。

 人の視覚は見ているものを全て知覚認識している訳ではありません。見ようとするもの、つまり知っているものが見えているのです。
“知っている”というのはつまり経験によるものです。
そう、経験を積み重ねることによって“見えるよう”になるのです。
ゆえに、同じものを見ていても経験の違いによって見え方が変わってくるのです。
(もちろん、物理的条件や精神状態、天性によっても変わってきますが。)

 自分の知る限り師匠は誰よりも魚が見えます。いろんな逸話もありますが、一緒に釣行していて「あそこに魚がいる」、「ほら食ってる!」と言われ「え!どこ?」、「え!食った?」ということがよくあります。テンカラを始めた頃よりはそんな状況も減りましたが、まだまだ全然かないません。しかも、師匠の目には魚が出た時の一瞬の状況も、まるでスローモーション機能でも着いているんですか?と聞きたくなるくらい正確に見えています。

恐るべし、鬼の目

 これは全て師匠の経験と天性によるものです。幼い頃から川に学び育ち、その天性でどんな釣りでも、大人顔負けの腕前を身につけてきた師匠だからこそ見えるのです。どんな川でもどんな状況でも、どの岩やどの流れのどの棚に魚が着いていて、どこで毛鉤を食うのか、川と魚の生態を知り尽くしているからこそ見えるのです。抜群の動体視力も経験の賜物です。(速読者やプロ野球選手の目も訓練(経験)によるものです。)

状況を見る目、川を見る目、魚を見る目、まさに鬼の千里眼。

欲しい。

 その技術に憧れ師匠に付いたのですが、すぐに気付いたのがその目のすごさです。
自分に見えないものがこの人には見えている。見たいものが見えている。
自分が絵の勉強を始めた時と同じでした。

 世の中で凄いなと思う人は、アスリートであれ政治家であれ学者、芸術家、漁師、農民、教師、釣り人、なんであれ見たいものが見える卓越した目を持っています。

 経験を積むごとに少しずつ見えるようになるんです。
自分の職場の喫煙室に古びた手拭が飾ってあります。剣道師範の何かの記念品です。そこには、「鍛は千日の稽古、錬は万日の稽古」と書かれています。
煙草を吸いながらそれを見るたびに胸が熱くなります。