2008年10月1日水曜日

釣れづれなるままに 〜その②

 学生のころに大阪に初めて行ったとき、都会の喧噪に圧倒され、暴力的に押し付けられる情報量の多さに、五感が麻痺して行くのを覚えた。(ただ、自分が田舎者で情報を処理しきれなかっただけかもしれないが)自然の中に居る時とは正反対の感覚。
このとき思ったのが、自分には「能動的な受動」があっている、ということ。自分が、意識的に感じようとしなければ感じられない感覚、決まったもの(人工的なもの)を押し付けられることで得られる、限られた情報でなく、あるがままのもの(無為自然なもの)をあるがままに受け入れることによって得られる、無限に広がる知覚が、それを感じ取れる五感がとても大切に思えた。

また、話が長くなってしまった。

 子どもが産まれて父親になり、子どもにも同じ感覚を持って欲しい、教えたいと思った。
今思えば子どもは素晴らしい。歩くことを覚えて間もない長男は、その足から伝わる大地の感触を楽しみ、平滑ではなく起伏のある地面を駆け回り、転がりその感触を全身で感じ取りながらはしゃぎ喜んでいた。日の光の暖かさや風の抵抗に、その広さに心奪われいつまでも飽きずに遊んでいた。遊具も何もなく、ただ全身に伝わる自然の感触を楽しみ喜んでいた。教える必要はない、ともにそれを喜び、環境を与えてあげさえすればいいのかもしれない。もしかすると、初めに飽きて退屈になり“つまらない”と思うのは大人なのかもしれない。気付かないうちに“つまらない”という感覚を教えているのでは・・・・。何にしても、浅はかな先回りと何でも与えるというのは良くない。環境を用意してあげること、飽きずに付合うこと、本当に必要な時だけほんの少しだけ助けてあげること、そして共感してあげることが必要なのだ。

あれ、教育論になってしまった。
『やっちまったな〜』・・・・・・・つづく

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